メモ:暴力について

暴力は伝染する。誰にも気付かれないほど静かに、しかし劇的な仕方で。心の奥底に植え付けられた暴力性に、人はほとんど抗うことができない。それが表に、大切な人たちの前に現れないようにと祈ることしかできない。そして多くの場合、その祈りは裏切られることになる。

メモ:愛について

かわいい女の子と劇的で運命的な恋をすればすべてが救われてすべてがうまくいく、みたいな観念はたしかにぼくのなかにもあるけれど、これは物語によって植えつけられた虚構以外の何物でもない。

 

恋、それは深く根付いた虚構としての呪いである……。

 

恋は、一つの世界観(=運命)を構成することによって、さまざまな効果を発生させる(効果、それは一つの世界の内部で発生するものである)。恋はさまざまなことを行うのだ。

 

他方、Radwimpsが言っていることとは反対に、愛にできることは何もない。愛はいかなる効果も及ぼさない。

 

恋は虚構だが、それはぼくたちがその内部で何らかの役割を演じる場所としての虚構なのであって、その内部においては、恋はさまざまな効果を及ぼすことによって実在的なのだ(超越論的主観性と経験的実在性の両立)。

 

愛は虚構と実在の差異であり、舞台と世界の差異なのであって、この差異が与えられることによってはじめて恋はその機能を果たすようになる。しかし同時に、この差異が存続する限りにおいて、恋は必然的に失敗する運命にある(恋の愚かさ(bêtise))。だって、恋はそれにのめり込んでいるあいだだけ、それをアクチュアルなものとして真剣に受け取るときにだけ、恋であることができるのだから。

 

だから、愛は恋の可能性の条件であると同時に、その不可能性の条件でもあるのだ(超越論哲学の超-超越論的条件としての愛)。

 

愛はすべての根底にある。愛は「原理の中の原理」(フッサール)としての恋をも基礎付けるものである。それにもかかわらず、いや、それだからこそ、愛にできることは何もない。愛は世界そのものを丸ごと与えるのだが、そのようなことを世界の内部で理解することは、決してできないのである。