代替現実の時代――拡張現実の時代・前夜

 

(はじめてブログを開設したということで、試験的に記事を投下してみます。以下の文章は、ある講義の課題レポートとしてぼくが今年の2月ごろに提出したものをそのまま転載したものです。)

 

 

 テクノロジーの急激な発展は社会のあり方を一変させる。農耕革命や産業革命はもちろんのこと、特に戦後の「第三の革命」としての情報技術のめざましい発展=情報革命は、人々の生活態度をめまぐるしく(かつ継続的に)変化させている。

 情報技術の発展はつねにコンピューターゲームの変遷とともにあった。評論家の中川大地は『現代ゲーム全史』において、両者の歴史的な関係を、見田宗介が提起した「三つの反-現実で規定される一連の戦後史観」になぞらえて網羅的に描き出している。「前史的な段階から日本の敗戦復興期にあたる〈理想の時代〉にかけて」、「戦前・戦中の計算機技術そのものの黎明とともに、コンピューターゲームの起源となるいくつかの事例が発生し」、「日本の高度成長期にあたる〈夢の時代〉」には、「アメリカ東西両海岸の研究機関等で勃興したハッカーたちのコミュニティが、カウンターカルチャーとしてのゲームを育んでいった」。「世界を席巻するに至った『スペースインベーダー』……はとりもなおさず、〈虚構の時代〉の最初の5年期にあって、ビデオゲームこそがその時代精神を最も端的に体現する文化産物」であることを示すものであり、〈虚構の時代〉終期には「『スーパーマリオブラザーズ』や『ドラゴンクエスト』などのヒット作を経て、様々なデジタルゲームサブジャンルが成立していく」(中川 2016:12-13)。

 さらに中川は、〈理想の時代〉〈夢の時代〉〈虚構の時代〉に続く1990年以降の時代区分を、宇野常寛『リトル・ピープルの時代』における用語法を援用して、〈仮想現実の時代〉(1990年代前半~2000年代前半)および〈拡張現実の時代〉(2000年代後半~)と名付ける。リアリスティックで行動自由度の高い3Dゲームに「没入」する態度から、携帯ゲーム機を持ち歩き、現実を「拡張」する態度へ。〈ここではない、どこか〉=〈外部〉へと人々を誘う〈仮想現実の時代〉から、〈いま、ここ〉の現実性を多重化する〈拡張現実の時代〉へ*1。「同時代に浮上した……情報技術上のコンセプトに由来する、……「現実」を修飾するこの命名法には、〈虚構の時代〉にゲームが先導した情報技術の普及により、テクノロジーは何らかの反-現実を志向する観念を表象するものというよりも、人々の身体的な現実感そのものを直接的に合成したり変容させうるツールとなったことが、見田の用語系との対称性を担保しながら端的に示されている」と中川は語る(中川 2016:14)。

本レポートは、〈仮想現実の時代〉までの社会史観を中川の「文明の遊戯史観」に依拠しつつ、2015年に公開された映画『ピクセル』における描写と、「ARG(代替現実ゲーム)」と呼ばれる新たな種類のゲームを手掛かりにして、〈仮想現実の時代〉から〈拡張現実の時代〉への移行期としての(『現代ゲーム全史』が見落としている)現代=〈代替現実の時代〉を描出することを試みるものである。

 

 

1.『ピクセル』が示す過去と未来

1982年―NASAが宇宙に向けて「友好」のメッセージを発信した。 2015年―しかし、そのメッセージは大きな誤解を招き、我々人類に襲い掛かる。 ヤツらはゲームキャラに姿を変え、地球を侵略開始したのだ。……ゲームオタク vs 80年代ゲームキャラ、今「決戦」がスタートする!*2

1982年、当時流行していたアーケードゲームの映像が、地球外生命体への「友好」のメッセージとして宇宙空間へと送られる。しかし、そのメッセージを受け取った「ヴォルーラ星人」は、それを地球からの宣戦布告と受け取り、兵器として再現されたゲームキャラクターたちを携えて、地球に対してゲーム対決を挑む。ホームシアターの取り付け業者として冴えない中年生活を送っていた主人公サムは、少年時代に培ったゲームの腕前を武器に「ヴォルーラ星人」との「決戦」に臨む。以上がこの物語のあらすじである。

ピクセル』における「ヴォルーガ星人」との対決は、すべて既存のコンピューターゲームのルールに則って行われる。ただし、それらのゲームが展開されるのは、モニターの表面においてではなく、現実においてである。サムたちは現実に具現化した「センチピード」や「パックマン」と対決する。「パックマン」がニューヨークの一画を縦横無尽に動き回る映像は、優れてAR(Augmented Reality)=拡張現実的であると言える。

ここで注意しなければならないのは、『ピクセル』で繰り返し示されるゲーム体験のイメージは、「ギャラガ」や「パックマン」に代表される、1980年ごろのアーケードゲーム初期のものである、という点である。つまり、『ピクセル』が前提とするゲーム体験は〈仮想現実の時代〉以前のゲーム体験である。ここには一種の倒錯がある。『ピクセル』は、ゲーム及びゲーム内のキャラクターたちを現実に具現化させるという意味で〈拡張現実の時代〉的である。他方、そのようにして具現化されるゲームは〈仮想現実の時代〉以前のものである。

 『ピクセル』は二つの時代にまたがる想像力によって描かれる物語である。一方には〈仮想現実の時代〉以前の(すなわち〈虚構の時代〉の)アーケードゲームにおけるゲーム体験のイメージがあり、もう一方には仮想現実と現実世界とを重ね合わせる〈拡張現実の時代〉的なゲーム体験のイメージがある。前者をよく知っている人間にとって、この映画の魅力は第一に数々の「80年代ゲームキャラ」へのノスタルジーにあり、次にそのアナクロニズムにあると言えるだろう。

 逆に、アーケードゲーム初期の時代を知らない人間にとって、『ピクセル』に登場するゲームの多くは馴染みのないものである。もちろんドット絵(Pixel Art)で表現されたキャラクターたちに一種のノスタルジーを感じ取る人間もいるだろうが、そうでない人間がこの映画のコンセプトに魅力を感じることがあるとすれば、その魅力の源泉はゲーム内のキャラクターたちが現実に顕現するという〈拡張現実の時代〉的な側面に求められるべきだろう。

 現代における拡張現実の立ち位置を考えるためには、まず現代の位置を確定しなければならない。現代は〈拡張現実の時代〉だろうか、それともそれ以前だろうか、以降だろうか。

ピクセル』における描写を見れば答えは明らかである。われわれは、光線銃を抱えて「センチピード」を迎え撃つ兵士たちや、「パックマン」に追われる色付きの改造車を見て、未来を感じる。『ピクセル』におけるAR的な描写は、いずれも現代のAR技術では実現されていないものである。現代においてARはいまだ発展途上の技術であり、現代を生きる若者にとって『ピクセル』は未来(といってもそれは「近い将来」である)を映すSF作品である。現代は(中川の思惑とは裏腹に)〈拡張現実の時代〉以前であると言わなければならない。

 

2.〈代替現実の時代〉とARG

 現代は〈仮想現実の時代〉から〈拡張現実の時代〉へと移行する途上にある中間地点である。この時代を〈代替現実の時代〉と呼ぶことにしたい。ここで、代替現実(Alternate Reality)という語は、代替現実ゲーム(Alternate Reality Game、以下ARG)より派生した言葉である。

 SIG-ARG(NPO法人国際ゲーム開発者協会日本代替現実ゲーム専門部会)が運営するWebサイト「ARG情報局」における記述によれば、ARGとは「参加者の行動に応じて変化するリアルタイムでインタラクティブな物語」であり、「ゲームであることを明言せず、従ってルールやゲームの範囲も提示しない」まま、「謎解きやミッションなどが与えられ、それを解決することで物語が進んでいく」ゲームである。また、ARGのプレイヤーは「何かになりきる必要はなく、現実世界に生きている自分自身のまま参加する」*3

日本におけるARGの一例として、2014年にプレイされた『bell』(河野裕・河端ジュン一、富士見書房)を挙げることができる。「3D小説」と銘打たれた本作は、「期間を決めて掲載されていくWeb小説内で提示されていく物語に対して、参加者が介入することで登場人物の未来が変わるというWeb小説」であり、「主人公が拾ったスマートフォンに対して「読者からメッセージを送れる」という設定があり、主人公を上手く誘導することにより「ハッピーエンド」を目指していく」という仕掛けを有するARGである*4。読者=プレイヤーたちはTwitter等のSNSを用いてコミュニティを形成し、ある読者は暗号解読に注力し、ある読者はその様子を眺める「観客」としてゲームに参加する。重要なヒントが長野にあるミュージアムに隠されていることがわかれば、ある読者が予定していたドライブデートの行き先を変えて手掛かりを入手し、JR鳥羽駅に手掛かりがあることがわかれば、三重県在住の読者がそこへ向かった(竹内 2017)。

代替現実=Alternate Realityに含まれるAlternateという語には、このように現実世界と物語世界とを「行きつ戻りつ」するという意味が込められている(竹内 2017)。『bell』において、現実世界から物語世界へアクセスするにはスマートフォンを手に持ってTwitterアプリを起動するだけでよい。すでにスマートフォンを手に持っている場合はTwitterを開くだけでよい。ゲームから離脱したい場合はTwitterアプリを終了すればよい。このように、ゲームへのアクセス-離脱に対するハードルの低さが、読者=プレイヤーの「行きつ戻りつ」を可能にしている。

 〈代替現実の時代〉の最大の特徴は、その「行きつ戻りつ」性である。〈仮想現実の時代〉を代表する、リアリスティックで行動自由度の高い3Dゲームへと「没入」する態度は、ここには見られない。ARGにおいて、プレイヤーは現実世界と物語世界とを頻繁に「行きつ戻りつ」する環境のなかに置かれることになる。また、〈拡張現実の時代〉にあるべき仮想現実と〈いま、ここ〉との一致は、ここでは不完全にしか現れない。ARGにおいては、現実世界と物語世界とはあくまで分断されている(そうでなければ「行きつ戻りつ」ということは意味をなさないだろう)。他方、現実世界と物語世界とがあるレベルで重なり合っていることもまた事実である。ARGにおける物語世界は現実世界との時間的・位置的連動性によって現実世界と重なり合っている。つまり、ARGにおいて、現実世界と物語世界は不確実に分断されているのである。

 

3.〈代替現実の時代〉とソーシャルゲーム

ここまで、ARGを例にして〈代替現実の時代〉の骨格=「行きつ戻りつ」性を描写してきた。次に、今世紀に入ってから急速に広まったソーシャルゲームと呼ばれるゲーム一般の構造にこの「行きつ戻りつ」性が見出されることを述べる。「ソーシャルゲーム」という言葉は非常に広く曖昧な外延を持つが、ここでは簡単のために、特にスマートフォン上で展開される「基本無料(free-to-play)」のゲーム群を指してソーシャルゲームと呼ぶことにする。

ソーシャルゲームがプレイされる環境は、それ以前の家庭用ゲームがプレイされる環境とは大きく異なっている。そもそもスマートフォンは「ゲーム機」ではない。万能情報端末としてのスマートフォンのホーム画面には、ゲームをプレイするためのアプリのほか、電話やメール等の携帯電話としての必須機能や、TwitterInstagram等のSNSに接続するためのアプリなどが、基本的には同等の地位で並列されている。アクセスの容易さという点に関して、スマートフォンを用いてソーシャルゲームをプレイすることは、メールアプリを起動して新着メールをチェックすることや、Twitterを開いてツイートを行うことと同じ水準にあるのである。

離脱の容易さという点に関しても同様に考えることができる。短く単純なゲームセッションを反復する、というソーシャルゲームの一般的な構造は、ゲームからの離脱への心理的抵抗を減少させるからである。

また、ソーシャルゲームのゲーム内時間は、「スタミナ」という概念によって現実の時間と連動している。プレイヤーは、スタミナがなくなればゲームから離脱して現実世界へと戻り、スタミナが溜まるまでの時間を(意識しながら)そこで待つことになる。

アクセス-離脱に対するハードルの低さ、そして現実世界との不完全な重なりという点において、ソーシャルゲームはARGと同様に「行きつ戻りつ」性を持つと言える。(また、ここでは詳述できなかったが、Twitter等のSNSもまた「行きつ戻りつ」性を有していると言えるだろう。)

 

4.結論

「行きつ戻りつ」性を基盤とする〈代替現実の時代〉は、ゲーム史の文脈においては特にソーシャルゲーム(およびARG)に象徴されている。この時代は〈仮想現実の時代〉から〈拡張現実の時代〉への移行期として記述することができる。

〈仮想現実の時代〉が「もう一つの現実」=〈ここではない、どこか〉=〈外部〉を求める時代であり、〈拡張現実の時代〉が仮想空間と現実世界とを重ね合わせることによって多重化した〈いま、ここ〉を求める時代であるとするなら、〈代替現実の時代〉は不確実に分断された〈いま、ここ〉と〈外部〉とを「行きつ戻りつ」する(そうせずにはいられない)時代である。

また、以上の結論から次のことが言える。現代人はスマートフォンの画面を覗き込むことによっていつでも私的な空間に閉じこもることができる、という〈仮想現実の時代〉的な発想に支えられた古い言説(「カプセル人間」論(平野秀秋中野収)はこれに当てはまるだろう)は、〈代替現実の時代〉において大きく修正を迫られることになる。現代人がスマートフォンの画面を覗き込むことによってアクセスする空間は、現実世界と不確実に分断された半-公共的な空間であり、われわれはもはやその空間に「閉じこもる」ことさえできないのだから。

 

[参考文献・資料]

Chris Columbus監督『ピクセル(原題:Pixels)』Happy Madison Productions・1492 Pictures制作、2015年。

河野裕、河端ジュン一『bell』KADOKAWA/富士見書房、2014年。

宇野常寛『リトル・ピープルの時代』幻冬舎文庫、2015年。

竹内ゆうすけ、「非デジタルな「ソーシャルゲーム」」、『ユリイカ』(特集「ソーシャルゲームの現在」)、青土社、2017年2月、180-183頁。

中川大地『現代ゲーム全史:文明の遊戯史観から』早川書房、2016年。

見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫、1995年。

*1:「このとき、〈現実〉に対置し得るものはかつての意味での〈虚構〉ではあり得ない。かつてのように……〈ここではない、どこか〉=〈外部〉に消費者たちを誘う「仮想現実」ではもはやあり得ないのだ。……そんなときに〈反現実〉として作用するもの、それが私たちの想像力によって彩られ、多重化した〈いま、ここ〉の現実、すなわち〈拡張現実〉なのだ。」(宇野常寛『リトル・ピープルの時代』幻冬舎文庫、452-453頁。)

*2:「ストーリー」(映画『ピクセル』|ソニー・ピクチャーズ)、http://bd-dvd.sonypictures.jp/pixel/#story、2017/02/09アクセス。

*3:「ARG(代替現実ゲーム)とは?」(ARG情報局)、http://arg.igda.jp/p/arg.html、2017/02/09アクセス。

*4:「「3D小説 bell」におけるARG的ストーリーテリングの可能性」(GAME Watch)、http://game.watch.impress.co.jp/docs/news/718033.html、2017/02/09アクセス。