タイムトラベルの倫理――「アバウト・タイム」をめぐって(ネタバレ注意)

 

注意:以下、映画「アバウト・タイム」(2013)のネタバレをふんだんに含んでいます。

 

 

タイムトラベルに倫理的な問題を帰属させることができるとすれば、その過程は他者の存在を通過せずにはいられないだろう。

ひとは、タイムトラベルを行うことによって、たとえば過去を改変することができる。そうすることで、ひとはあらゆる残酷な行いを「なかったこと」にすることができるのである。したがって、ここにはどのような倫理的な問題も発生しえないように見える。しかしながらその考えは誤りである。「他者」の存在(他者の命、未来、人生)を顧みたとき、われわれはそこに潜むある重大な問題を発見することができる。映画「アバウト・タイム」について考えながら、その地点に至るまでの道筋を辿ってみよう。

 

 

 

 

1.過去改変と改変の過去

イギリス南西部コーンウォールに住む青年ティムは、両親と妹、そして伯父の5人家族。
どんな天気でも、海辺でピクニックを、週末は野外映画上映を楽しむ。風変りだけど仲良し家族。しかし、自分に自信のないティムは年頃になっても彼女ができずにいた。
そして迎えた21歳の誕生日、一家に生まれた男たちにはタイムトラベル能力があることを父から知らされる。そんな能力に驚きつつも恋人ゲットのためにタイムトラベルを繰り返すようになるティム。

弁護士を目指してロンドンへ移り住んでからは、チャーミングな女の子メアリーと出会い、恋に落ちる。
ところが、タイムトラベルが引き起こす不運によって、二人の出会いはなかったことに!

なんとか彼女の愛を勝ち取り、その後もタイムトラベルを続けて人とは違う人生を送るティムだったが、やがて重大なことに気がついていく。どんな家族にも起こる不幸や波風は、あらゆる能力を使っても回避することは不可能なのだと。そして、迫られる人生最大の選択——。*1

以上の「あらすじ」に示されているように、「アバウト・タイム」の主人公ティムはタイムトラベルの能力を持つ青年である。彼はその能力を用いて過去を改変し、より都合のいい未来を――就きたい職に就き、愛する人に愛される未来を――獲得する。

過去を改変するということは、改変された過去の出来事を消去する(「なかったこと」にする)ということを含んでいる。就きたい職に就けなかった過去、愛する人に愛されなかったという過去は、タイムトラベルによる過去改変が起こると同時に消去されることになるのである。

したがって、ここには一般的な意味での倫理的問題は発生しえないように見える。なぜなら、ここでは「問題」となるような出来事それ自体が消去されてしまうからである。ここで、誤解を避けるために、次の二点を注記しておく。

  • 「なかったこと」にされることは、「気付かれていない」こととなることから区別されなければならない。(盗みが悪いことであるとすれば、)盗みは、たとえ盗んだことが誰にも知られない場合であっても悪いことである。したがって盗んだ本人は、たとえ盗んだ事実が誰にも知られない場合であっても、悪いことをした人間である。他方、盗んだ事実が「なかったこと」にされたとき、その人は、気づかれていないだけでなく、事実として悪いことをした人間ではなくなるのである。
  • また、罪を償うことからも区別されなければならない。盗みは、たとえ盗んだものを返したとしても(あるいはそののち適切な罰を受けたとしても)悪いことである。したがって盗んだ本人は、たとえその罪を償った場合であっても、悪いことをした人間であることに変わりはない。しかし、盗んだという事実が「なかったこと」にされたとき、その人は事実として悪いことをした人間ではなくなる

このように、過去の出来事を消去することができるということは、その人が悪いことをした人間であるという事実そのものを消去することができるということである。したがって、タイムトラベルの過去改変能力が適切に運用されるとき、そこにはいかなる倫理的問題も発生しえないのである。

 

……本当にそうだろうか? 過去改変能力は、「問題」となりうるあらゆる出来事を「なかったこと」にすることができるのだろうか? いや、できない。タイムトラベルによる過去改変が消去することのできない過去が一つだけある。それは、過去改変を行ったという過去である*2。タイムトラベルの倫理的諸問題が生起する場所が存在するとすれば、それはこの唯一改変できない事柄の周辺にちがいない。

以下で強調したいのは、映画「アバウト・タイム」はこの(唯一改変できない事実としての)「改変の過去」に真正面から立ち向かうものであるということであり、そして、「アバウト・タイム」はしかしある決定的な倫理的問題を見逃してしまっているということである。

 

2.改変の過去と他者の存在

タイムトラベルを繰り返し、紆余曲折ありながらも愛する人メアリーと結ばれたティムは、その後もタイムトラベルの能力を活用して何不自由ない生活を送ることになる。問題は、メアリーとの間にもうけた娘が一歳になるころに起こる。ティムの妹キットカットが交通事故に遭うのである。さいわい命は助かったものの、妹の痛ましい姿を見て心を痛めたティムは、その事故の原因となった出来事を過去改変によって取り除くことに決める。首尾よく作業を終え、もとの時点に戻ってきたティムは、目の前の光景を見て驚愕することになる。一歳になったばかりの娘はそこにおらず、代わりに見覚えのない男児がいて、その子どもこそが自分とメアリーのあいだの子供であるということになっているのである。

このような事態が発生した理由は実に単純である。受精の場面を考えてみればよい。数億ある精子のなかから、当のその娘の遺伝情報を担っていた精子がただひとつ受精したことは、ほとんど奇跡といってもよいほどの偶然によるものである。したがって、もしほんの少しでも条件が異なっていれば、別の精子がその栄光に与ることは十分ありえたことであり、それゆえ別の遺伝的特徴を持つ別の子どもが誕生したことは十分ありえたことなのである。ティムが行った過去改変はまさにその条件を変更することに等しく、それゆえにティムの娘は生まれてこなかったのである。

受精以前に遡って過去を改変すれば、かけがえのない娘を失うことになる*3。結局ティムは過去改変を取りやめ(改変されたという事実を改変し)、妹の大怪我と引き換えに元の娘を取り戻すことになる。やがて妹は復調し、ティムは元の平穏な日々を手に入れる。

 

さて、ここに潜んでいる倫理的問題にすでにお気付きだろうか。ティムは改変された過去をさらに改変することによってただひとりの娘を取り戻すことができた。しかしその裏では、ある男児がその人生の可能性を絶たれているのである。その男児はたしかにティムとメアリーのあいだの子どもであり、もしティムが過去を改変しなかったならば自分なりの人生を歩んでいたはずの人物である。ティムにとっての「本当の子ども」とは違っていたとしても、彼にだって命があり、未来があり、人生がある。タイムトラベルによる過去改変は、彼からそのすべてを奪い去ることを意味する……。もしある人の人生の可能性を奪うことが倫理的に悪であるならば(とはいえ、そのことはほとんど自明であるように思える)、ティムが行ったことはたしかに倫理的に悪であったと言えるのではないだろうか。

注目しなければならないのは、男児の消滅は過去改変によって直接的に引き起こされたものであるということである。第1節で行った議論によれば、タイムトラベルによる過去改変が唯一改変できない事実(過去)とは過去改変を行ったという過去である。男児の消滅は、この改変できない事実にその因果的な基盤を持つことによって、それ自体生起可能な事実であることができる。

次のような反論を考えることができるだろう。男児の消滅が悪であるとすれば、それは男児にとっての悪であるはずである。しかしながら、当の男児は過去改変が行われたことによってすでに消滅しており、男児が存在していたという事実もまた同時に消滅している。したがって、男児の消滅が男児にとって悪であることは不可能であり、それゆえに男児の消滅が悪であるということはない*4。この反論はある部分まで正当である。タイムトラベルによる過去の改変/消去はたしかに「男児が存在していた」という事実にまで及ぶし、改変後の世界に存在するほとんどすべての事実は男児の消滅が悪であるとは言えないということを支持するだろうから。

しかしながら、ある一つの事実の存在によって、その反論は棄却される。ティムが過去改変を行ったという事実である。男児の存在は確かに消滅したが、それが消滅したという事実は残存している。そしてそのことによって男児の存在のいわば痕跡が残っているのである。その反論がある部分まで正当であるのは、男児の存在が確かに消滅しているからであり、完全に正当であるというわけではないのは、男児の存在の痕跡が残っているからである。

ティムの妻であるエミリーについても同様の問題を指摘することができるだろう。あるときティムが過去改変を行うと、エミリーと知り合った事実が消滅し、エミリーは別の男性と恋愛関係にあるということになる。すると、ティムはその事実に我慢ならず、再び過去改変を行ってエミリーの愛を勝ち取るのである。もしティムが過去改変を行わなかったならば、エミリーは別の人生を過ごしていただろう。男児の消滅と同種の問題がここにあることがわかる。ここでも、「別のエミリー」の存在の痕跡が、「別のエミリー」の消滅をひとつの事実として承認する根拠となる。

タイムトラベルに倫理的な問題を帰属させることができるとすれば、それはこのような形で他者の存在を通過することによってはじめて可能になる。このことは、「アバウト・タイム」の核心を担う設定にも反映されているように見える。すなわち、ティムのタイムトラベルの能力は、他者の視線からはなれてひとりっきりになったときにだけ行使できるのである。ティムは優しい男で、つねに他者の存在を気にかけている。ティムのそばにはいつも他の誰か=他者がいて、彼はタイムトラベルを行うときだけひとりになる。タイムトラベルという、他者の可能性を踏みにじる身勝手な能力を行使するには、他者の存在しない場所にいなければならないのである。

 

3.他者の存在とタイムトラベルの消去

第2節の議論が示していたのは、「アバウト・タイム」が「過去改変を行ったという過去」に真正面から向き合うものであるということ、しかしその周辺にある倫理的問題を(その存在をかすかに感じながらも)見過ごしてしまっているということだった。

しかしながら、「アバウト・タイム」の終盤の展開には、そうした問題への一つの解決策が用意されている。それを確認することで結びとしよう。

 

ティムと同じくタイムトラベルの能力者であるティムの父は、その死の直前に、ある「幸せの秘訣」をティムに教える。それは、一日に一度だけタイムトラベルを行い、しかし過去を改変しないようにして、同じ一日を二度繰り返せ、というものだった。その「秘訣」を実行したティムは、これまで自分が見逃してきた多くのささやかな幸福の存在に気付くことになる。接客してくれた店員の何気ない笑顔、職場の内装の思いがけないうつくしさ……。父に教わった「幸せの秘訣」は、他の誰の人生にも干渉せず、ただそこにある幸せをうまく掴むためだけにタイムトラベルを行うということを意味していた。他者に配慮しつつより幸せに生きるためのツールとしてのみ、タイムトラベルを用いるということ。
それに対してティム自身は、やがて父のそれとは異なる「幸せの秘訣」を悟る。それは、タイムトラベルを用いた「ふり」をして毎日を過ごすことだった。まるでその日が二度目の一日であるかのように、ささやかな幸せに気を配りつつ、他者への配慮を保持しながら生きるのである。「他者に配慮しつつより幸せに生きる」ためには、タイムトラベルを行った「ふり」をするだけでよいということ。実際にはタイムトラベルは必要でないのだということ。


このようにして、タイムトラベルと他者とをめぐる物語は終結する。タイムトラベルは消去され、あとには他者との生活が残るのである。

 

 

 

[参考文献・資料]

Richard Curtis監督『アバウト・タイム~愛おしい時間について~(原題:About Time)』、Working Title Films・Relativity Media制作、2013年。

 

 

*1:「あらすじ」(「映画『アバウト・タイム~愛おしい時間について~』オフィシャルサイト」  http://abouttime-movie.jp/

*2:たしかに、過去改変が行われた当の時点にタイムトラベルし、その改変を阻止することによって、過去改変を行ったという事実を改変することは可能である。しかしながらその場合にも過去改変が行われていることは変わらないのであり、したがってその対処法は一時しのぎにもならない(のちに同様の論点に立ち戻ることになるだろう)。

*3:ここでの想定によれば、受精の際の条件がほとんど同じものになれば同じ赤ん坊が生まれるはずであるから、厳密に言えば過去改変と娘の喪失とのあいだに必然的な結びつきはない。しかしそのような「ほとんど同じ」条件を用意することは非常に難しいので、娘の喪失は事実上不可避であると言えるだろう。

*4:この反論は、エピクロスによる「死の害」への反論に似ている。エピクロスによれば、われわれは死後にはもはや存在しなくなるのだから、死後に死の害を被ることはない。ここで想定されている反論は「男児が存在していた」という事実の消滅までも認めているので、エピクロスの主張よりもいっそう強力であると言うことができる。